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高藤山古蹟の碑と平廣常

高藤山古蹟の碑と平廣常

江戸時代に描かれた廣常の図(国久画)船橋市西図書館蔵

江戸時代に描かれた廣常の図(国久画)船橋市西図書館蔵

 文久二年(1862)、一宮藩主加納久徴が高藤山に建てた「古蹟碑」は、古代平安朝以来、この地方一円を支配していた上総介を継いだ廣常が、頼朝の挙兵に応じてここ高藤山から軍騎二万余と共に駆けつけ、鎌倉幕府創建に導いたと、その偉業を称えている。

 この碑文の前半には、北東に一宮川が流れ、この70メートルほどの急峻な山、東眼前の本郷の山があり、その先に九十九里浜を望むと、その地理を示し、その周囲に簱立坂・鐙谷・伊南殿谷・和泉殿谷などゆかりの地名も残すと伝えている。

 また、土地の人々の言い伝えでは、この本丸の南西の妙勝寺(現存)は、当時の城の正面の跡で、その側の隼人谷は廣常の重臣の宅地。この近くの小版橋に沿って、大橋と呼んだ城堀の遺跡があるなどを考え合わせれば、高藤山を難攻不落の本丸、本郷をその外郭といってよいと断じている。

 これについては、近年、『房総叢書』『長生郡郷土史』を編纂し、「ヒメハルゼミ発生地」指定にも貢献して著名な林天然(※1)もこの説を支持し、一宮を以って廣常の勢力中心地と結論づけている。

 以下前号に続き、碑の原文(前月号を参照)をたどりながら廣常参陣のくだりに始まる碑文の後半へ読みすすめることにする。

[現代文](後半)

  「治承4年(1180)、頼朝の挙兵に廣常本地の上総一円から兵二万余騎を帥(ひき)いて墨陀河(隅田川)の野営地に参陣して頼朝の麾下(きか)に従い、度々戦功を建てる。その年の養和元年(治承4年)には命をうけて義澄(三浦介)と射犬(やぶさめ)の儀を定めている。

 ところが、寿永2年(1183)12月22日、讒言(ざんげん)を被って誅死し一族すべて役目と領地を除かれてしまう。

 廣常が生前、一通の文を甲(かぶと)の紐に結んで一宮の神廟(しんびょう・玉前神社)に奉納していたことを死の翌年告げられ、人を遣わして取り寄せて見るとそれは頼朝の武運を祈る願文で、全く謀反の言葉はない。(頼朝は)これを知って、深く悼み、その子弟、甥姪などことごとく免罪される。また、廣常の菩提寺である大谷木村安養寺の過去帳の中に、今もその法名を見ることができる。

城の正面といわれている妙勝寺
城の正面といわれている妙勝寺

 侯(藩主加納久徴)は、城址がもしも草を刈りとり田畑になって姿を消してしまうかも知れぬことを恐れ、今ここに標の碑を建てようと心に決める」と続く(中略)

 以下、領内の古蹟を修理整頓して廃滅に至らせぬのは、治世の責務であり、かってより「懐古は、人情の最も大切にしなければならないことである。」とし、まして貴人にあらず「在野の雄・廣常の本拠のあと、これを考えめぐらすべきは同井人として感慨いかばかりか」と。

 しかし、時が経てば廣常の上総での遺徳、鎌倉幕府創建に尽くした功績も、やがて忘れられ、高藤の古蹟との7百年間、かつて一人の過ぎて問う者があったであろうか、と惜しむ。そして「今、候に至って初めて世に表すことができ、廣常がこの地に返って侯を待っているようだ。(中略)郷民が観、感じ、意気盛んになることは優れた治世である。云々」

と、碑文は結んでいる。

 これが廣常に関する事柄である。

 再び 寿永2年のこと

 廣常誅死の寿永2年。この前々年の養和元年、すでに平清盛逝き、平家一門も西国へ落ちている。文治元年(1185)、すなわち廣常死の2年後には、壇の浦に平家滅亡の日が迫り、やがて、建久3年(1192)、関東武士による悲願の「鎌倉幕府創建」を目前にした無念の死であった。 この大事が、なぜか鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』(※2)に記載がない。『愚管抄』(※3)によれば、頼朝の後白河法王奏の場面に

「介の八郎(廣常)ヲ梶原景時シテ討タセタル事、景時ガ功名ト云ウバカリナシ。雙六ウチテ、サリゲナシニテ盤ヲコヘテ、ヤガテ頸ヲカイ切リテモテキタリケル」(巻六)

と、自らの指示を述べている。この時、弟の金田頼次、廣常の嫡子良常は殉死。

 これに先だつ頼朝挙兵の場面では、

「(伊豆から逃れ、土肥実平らを供に)船ニ乗リテ、上総ノ廣経(常)ガ許ヘ行キテ勢イツキニケル後ハ、又東国ノ者皆従ヒニケル」(巻五)

と、廣常の名をあげ、その加勢があったればこそ志気が高まった、とのべている。

 

寿永3年のこと

明けて寿永3年、『吾妻鏡』正月の部の8日に、上総国一宮の神主らより、廣常存日中に奉納した甲一領に、宿願の趣があるとの知らせを受け、使者を遣わすと、記されている。

 これに次いでみられるのが、同1月「17日丁未」の、遣わされた使者と、神主らが持参した甲の高紐に結びつけた一封の状から、頼朝の武運祈願の趣が明らかとなり、頼朝大いに恥じ廣常の「無実」と縁坐一族安堵の沙汰が下される。

 甲の高紐に結ばれた「願文」に云う

 

  玉前神社境内にある顕彰碑 「廣常公顕彰之碑」
玉前神社境内にある顕彰碑 「廣常公顕彰之碑」

玉前神社境内にある顕彰碑
玉前神社境内にある顕彰碑

一宮町玉前神社の境内、社殿に向かって左、鎮まる木立の蔭にその碑は佇んでいる。題して「上総権介朝臣廣常公顕彰之碑」。碑表に願文(別掲)を大書し、碑背には、廣常の弟天羽荘司の撰文が刻まれている。撰文に云う

「星霜八百年源家三代ニシテ北条モ滅ビテ恩讐悉ク土ニ帰シ今ハ只玉前社頭ノ樹梢颯颯ト風ニ鳴ルノミ然レバ茲ニ建碑シテ以テ英霊ヲ慰メ且ツ顕彰セントス」

と。想えば、古代の深い森に包まれ、玉前神社の社頭にひれ伏して「東国泰平」を祈願する武将・廣常の姿を彷彿とさせる碑ではある。

 この碑は、昭和63年宮司塚本辰蔵外有志によって建立され、毎年春分の日に碑前祭が執り行われている。

 

「自然児」介八郎 廣常

 

 介八郎廣常には、頼朝加勢の時から様々なエピソードがある。源氏再興のため尋ねた使者を「考慮の上」と返す。2万余の兵を率いた隅田へは、遅参をとがめられ頼朝の不興を買う。

 加勢後は、軍功めざましい傍ら、納涼遊山の宴で諸将ことごとく平伏して頼朝を迎える中、独り馬上で迎える。その宴席の座興に頼朝の水干を所望した老将と罵りあう等、これが頼朝との不和を深めたなどと実しやかに伝わり、傲慢と誤評され、狡猾な景時に乗じられる。

 しかし、上総の風土の中で伸びやかに和み、育ち、若くして一族郎党、領民の信望を集め、上総の国の棟梁として三浦、和田、千葉らと友誼を結んで武勇の名を轟かした八郎廣常には、「自然児」の名こそ相応しい。

 

【脚註】

※1 林 天然 はやしてんねん。明治20年~昭和38年(1887~1963)。下永吉(現茂原市)生まれ。名は寿祐、号を天然。博物学を読破、動植物を観察し教員資格を取得。大成館(現県立長生高校)で博物学を教え、後「ヒメハルゼミ発生地」指定にも貢献。郷土史家として『房総叢書』『長生郡郷土史』編纂で著名。『一宮町史』(昭和39年刊)に、「一宮豪族平廣常」寄稿。

※2 『吾妻鏡』 吾妻鏡。あずまかがみ。鎌倉後期成立の史書。鎌倉幕府の事跡を編年体で編述。安徳天皇即位、以仁王の平氏追討の令旨、頼朝挙兵と相次ぐ治承4年(1180)から前将軍宗尊親王帰京に至る87年間の重要資料。廣常やその一門の事跡は随所に述べられるが、なぜか廣常謀殺のことは消されている。

※3 『愚管抄』 ぐかんしょう。鎌倉初期の成立。日本最初の史論書。天台宗僧慈円著。神武から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治を道理の展開として記述する。

 

【註記】

 9月号に続き、高藤山古蹟碑から後半を主に、廣常の物語を辿ってみました。

 早くから上総国一円に強大な勢力をもつ上総介を継ぎ、関東八平氏の一つとして鎌倉幕府創建の中心的役割を果たしながら、不運にも、歴史の表舞台から忽然と去っていった勇者の面影を、加納久徴が万感の想いで建てた「古蹟碑」を通して少しでも理解していただければ幸いです。

上総一宮郷土史研究会

金田 昭