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風船爆弾

 

風船爆弾

昭和19年12月某日,午前6時半頃,七島踏切の手前までいくと,ちょうど海岸の松林のすぐ向こうに,気球がふわりと上がった。どんどん上がって天までいった。

田んぼ道を急いで歩いて駅に着いた。汽車がすぐきた。乗ってみると当然のように海側の窓は,鎧戸が降ろされていた。

この気球が風船爆弾で,一宮海岸は風船爆弾の基地になっていたのである。

太平洋戦争の末期,旧陸軍が米国内の攪乱を狙って米本土攻撃をするための秘密兵器だったのである。

 

風船爆弾の構造

 

これは直径10メートルの気球に15キロ炸裂爆弾,5キロ焼夷弾(2個)を装着,高度調整装置を取り付け,8千メートルから1万メートルまで上げ,冬の偏西風にのせて米国本土まで飛ばせて落下するように仕掛けてある。

○気球は紙風船で中に水素ガスで詰めてある。

○回りの紙は,楮(こうぞ)を原料とした和紙で,こんにゃくを原料とした糊で接着してある。大判和紙(66cm×193cm)と小判和紙(67cm×97cm)を組み合わせてこれを五層貼り,丈夫な球皮とした。(小型紙4千枚相当)

○気球作りの工場は日劇,宝塚,国際劇場や国技館等で席を外して板張りの床とし作業をし易くした。働き手は女学生や女子挺身隊がそれぞれ200人位配置された。

○水素ガスは昭和電工川崎工場,横浜工場等で製造しボンベに詰めてトラックや貨車で基地に運ばれた。

風船爆弾の放球基地は,茨城県大津(18台),千葉県一宮(12台),福島県勿来(なこそ)(12台)である。※()内は放球台数。

放球台は直径10メートルの円型コンクリート床を作り,周囲に19本の綱をつなぎとめるのに19個の鉄の懸吊環(けんちょかん)を固定させた。

3基地から米本土に向けて放たれた風船爆弾の概数は,19年11月に700個,12月に1,200個,翌年2月に1,200個だったという。放球台数で割算すると1台で約93個だから一宮基地はその12倍で1,100個位放球されたことになる。

○昭和19年2月から3月にかけて,一宮海岸から放球された実験気球は,約200個に達したという。

○昭和20年2月艦載機来襲,B29による京浜地区空爆,3月10日の東京大空襲等で工場は被災し,一宮は基地として機能しなくなり,勿来とともに大津に合流して残りの風船爆弾を放球して終わった。

○戦後,施設は全部取り壊し。駅の1番線にその面影を残すだけ。

〔参考〕

房総半島の防衛第5巻(千葉日報社)

 

一宮町史ふるさと郷土史研究会 長谷川英美