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加納藩の陣屋について


加納藩の陣屋について

城山には、天正18年(1590)頃までは城があったが、落城後、間もなく廃城となった。

江戸初期、明暦3年(1657)領主脇坂淡路守安元は城跡に館を築いた。享保11年(1726)加納久通が初代藩主となったが、一万石の定府大名で、陣屋は伊勢国東阿倉川に置いた。3代藩主加納久周(ひさのり)は寛政8年(1796)改革の功により上野国新田郡佐位郡の内3千石を加増された。寛政10年、伊勢国から上総国一宮に陣屋を移した。とはいっても、その頃の一宮は度重なる早害で疲弊していて、次の久慎(ひさちか)の代になっても新しく館を建設するに至らなかったと思われる。次の久儔(ひさとし)の代の文政8年(1825)の測量地図には館が描かれていない。翌、文政9年「本地(一宮)ニ陣屋ヲ建築シテ之ニ居ル」という記録があって、新築したことがわかる。

加納藩主は、江戸詰で代々大番頭、伏見奉行、奏者晩、若年寄等を歴任していて幕政に寄与している。領地が伊勢、上総、上野に分かれているので、藩主が英明で、留守居役に人を得ないと藩政は容易でない。

江戸時代、陣屋というのは1〜2万石の無城の小大名や交替寄合の屋敷を稱した。陣屋は城に準ずるもので、周囲は土塁や堀をめぐらしているが高い石垣はない。陣屋には、居館、役所、家臣の役宅や土蔵、修練場などが配置されている。一宮城址(城之内)及びその周辺は、陣屋として最適である。

追手の坂、両側の役宅、追手門周辺、館の位置(現振武館)、見晴し、藩校(現一宮小)、陣屋通り(字陣屋)、桜馬場等、一回りしてみると頷ける筈である。

6代藩主久徴(ひさあきら)が天保15年(1844)海岸に砲台を築き、陣所を設けて防備に当たったのは時流でもある。明治2年(1869)久宜(ひさよし)公が版籍奉還して以後陣屋、陣所は取り壊した。

郷土史研究会長谷川英美