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「市兵衛堀」について


「市兵衛堀」について

市兵衛堀について明治元年に記録された〔領主加納家引継〕に「加納遠江守久堅寛延元年十月十三日養父久通ノ家嗣後・・・・平常志ヲ民事ニ尽海岸ニ林ヲ設,家臣平山左十郎之当今之官林之也。水利ヲ起シ洞庭ノ潴(チョ)ヲ引テ耕田ニ注ク,家臣岩堀市兵衛掌之当今之洞庭ノ道路ニ通ス市兵衛堀ト云也」とある。

市兵衛堀は洞庭湖から老女子(おいなご)の坂下まで,幅三尺,高さ五尺のトンネル部十九と同じ幅の開渠部十九で作られた実測2,210メートルの用水路で,本給と老女子坂の所で,どんと落として手樋(てび)へ流れるようにできている。

市兵衛の名はその後,寛政11年「芳錢納之事」にでて次に弘化2年4月,軍議役,岩堀市兵衛正邦の名ででてくる〔中尾家文書〕更に嘉永4年7月岩堀家下女の墓石に岩堀市兵衛の名があり,陣屋に居住していたとの記録がある。(東漸寺)岩堀家は市兵衛まで世襲で,次の本名を正邦とか何々とか名付けて先代との区別をいていたと思われる。

洞堰からの取水口が完成(昭和41年)してから市兵衛堀への水門が閉じられ,1区の「どんどん」には堰水は流れず,川間の手樋も埋め立てられ,住宅地になり,市兵衛堀の使命は終わった。

現在は,耕田及び用水路の近代化が進み,大欠堰→ニ又堰→洞庭湖→洞堰→水門→JR外房線をくぐって,それぞれの大型耕田へ,用水路(パイプライン)給水栓,揚水機作動により米作りが可能になり「豊攘無窮」(碑文昭和58年)となった。

寛政元年(1748)以降昭和41年(1966)まで,工事の年月を含めて200年余り,一宮の耕田に水を注ぎ続けた市兵衛堀は偉大である。藩主,家臣,農民の知恵と技術と汗の結晶として語り継ぎ,史跡として保存する価値が充分あると思う。

郷土史研究会長谷川英美