もうひとつの城址「城山」 そして,国難の幕末-藩主久徴

 

もうひとつの城址「城山」 そして,国難の幕末-藩主久徴

久徴(ひさあきら)が高遠山上に建てた廣常の「古蹟碑」に、
「高遠山を難攻不落の本丸、本郷はその外郭ならん。」
と、断じた本郷の山。その先端、九十九里平野を一望するように「城之内」という地名を中心に、通称「城山」と呼ぶ城址(しろあと)がある。
その戦国城址に、かつて加納藩の陣屋が置かれ、今は振武館、崇文門、大手門などと往時を偲ぶ名の建物ができ、桜の時期には花見を楽しむ公園として人々に親しまれている。
ここ一宮城は戦国の時代どのように戦い、亡んでいったのであろうか。
また、ここは、相次ぐ飢饉、疫病、百姓一揆など世情不安に加え、黒船来航を機に幕末風雲急を告げる状況の下で、わずか一万三千石の小大名ながら、一宮藩主歴代の中できわだった治績をのこした久徴がいた。
以下、二つの研究(※1・2)から、これらの実像に近づいてみたい。

 

城山全景
城山全景

 

検証・戦国の一宮城

立地一宮町は、九十九里平野の最南端にあたり、西部は急峻な山陵が海岸線ぞいに南北に連なっている。平野部に突出した丘陵先端に立地する点は、戦国城郭の一般的なあり方で、本城はその典型的な例ということができる。

構造後に陣屋が置かれたという城之内が城址であることに異論はあるまい。

南側を除き五角形をなす丘陵に囲まれた谷部は、東西約百五十メートル、南北約百メートル。南側入口(大手虎口・見取図参照)の前面に屈曲する堀、周囲の丘陵上の堀切や腰曲輪、また西側の丘陵に顕著な人工的な整形(自然丘陵に手を加え傾斜~裾部を削り落とした土塁)は、明らかに城址それも中世城郭としての特徴を備えたものといえる。

 

戦国の一宮城一帯

 

事実、字城之内東端部の発掘調査(昭和五十八・五十九年)でも中世の遺構・遺物を検出しており、同様の状況は城之内北側でも十分に予想される。

城址の構造を考える上で、重要な視点として、従来一宮城といえば前述した遺構を総称するに過ぎなかったが、その城域を、地形や堀切、人為的削平地の存在などから、北側の観明寺さらに玉前神社の周辺まで広げる必要がある点を付け加えておく。

性格一宮城の史料上の初見は、天正3年(一五七五)八月二十三日付の北条家朱印状で、一宮の正木が里見に圧迫されているので兵糧を送り届けるよう、一族の北条氏繁らに命じている。

一宮周辺をめぐる一連の文書は他にもあり、(北条方里見方に正木が介在し、入り乱れてのめまぐるしい戦いの中で)東上総の夷隅と長生にかけての地が最前線となったようである。

この中で、永禄九年(一五六六)頃と推定される正木時忠宛ての北条氏輝書状が大雨による洪水で上総への出陣が遅れたことを詫び、新地に移った玉前神社(※3)の社中ならびに社宿以下の免税の件を承知したと述べている。

国府台後役(永禄七年)後、勝浦の正木時忠は里見にそむき、北条と結ぶようになるが、一宮もその傘下にあったことがうかがえ、時忠の子、時通の観明寺への禁制(永禄七年)、上杉輝虎書状にみる「正木左近大夫(時忠)以逆心正木大炊助没落」の記事と一連のものとみられる。

北条氏政、武田信玄による甲相同盟(元亀三年、一五七二)の成立で、西方の脅威を防いだ北条は、かねての上総進出に本格的にのりだす。土気・東金の両酒井(天正四年、一五七六)、長南武田(翌五年)が北条方になるとさすがの里見も耐えられず、北条と和睦する。

その後、小田喜(大多喜)城の正木憲時と新たに里見の当主となった義頼との争いで、憲時は討たれ(天正九年、一五八一)、小田喜も里見の押さえるところになる。一宮城も自落したか同じ運命をたどったに違いない。乱後、恩賞として虎見(東浪見)郷は正木頼時、高根・壱松(一松)郷は、正木大輔に与えられる。

下って天正十八年頃の状況と推定される『関東八州諸城覚書』(毛利文書)には、里見氏の属城として、「一宮の城鶴見甲斐守(里見家臣か)居城」とあり、天正年末には、大多喜、勝浦と並び、東上総における重要拠点のひとつとして把握されている。

遺構・遺物まず遺構について、第一に夷隅から九十九里平野を経て下総へ抜ける重要な戦略拠点に立地。第二にそのような立地に大規模な普請を行い、高土塁、腰曲輪・堀切の多用など、年代的には十六世紀、戦国時代後半の様式を呈していること。

以下、二回の発掘調査から、県内ではじめての礎石建物とそれに伴う園池、城郭円状の跡を思わせる厚い焼土層の発見。

また、出土した遺物に、十五世紀後半から十六世紀前半の年代を与えられる白磁や染付、瀬戸・美濃産陶磁器のほか、大量の鉄砲玉の出土に注目。わが国の使用が十六世紀後半に集中していることから、やはりこの頃か。

厚い焼土層が正木氏との戦いの時をさすのか、さらにその先にさかのぼるのか。その可能性も捨て去るべきではない、と指摘する。

(町指定=記念物史跡)

 

『幕末日本防衛の先駆者』

加納久徴

 

鎖国か開国か。幕末国家存亡の危機にあって、国、郷土のため五十二歳の障害を貫いた、ときの藩主久徴。

久徴は、大番頭、講武場総裁、若年寄など幕府要職を歴任。一方、一宮藩主として洞庭湖、市兵衛堀の完成、黒船来航に備え、いちはやい台場の構築や農漁民の練兵訓練などを断行。

佐藤信淵、大原幽学、梁川星巌、安積艮斎、遠山雲如ら、当代屈指の文人とも盛んに交流して世の動向を学び、また、郷土の歴史をひもといて高藤山に「古蹟碑」を建て、先人の遺徳を顕彰するなど民心の鼓舞に心を砕く。また優れた山鹿流兵法家として知られている。

久徴の防衛政策

加納氏は文政九年(一八二六)、久儔(ひさとも)の代、一宮に陣屋を建設し(初め脇坂氏陣屋に)、伊勢阿倉川から移転。

もちろん江戸防衛、国土防衛を意識したものであり、久儔移転後まもない文政十一年(一八二八)台車付の小型大砲一門を造り、陣屋内に設置している。

台場の建設

弘化元年(一八四四)、久徴は高島秋帆(※4)の指導で、大砲五門を製作。翌二年一宮海岸お林に据え付ける。(現在の字台場。記念碑が建つ)

台場の建設は、天保十一年頃から取り掛かり、およそ五年の月日を要したが、それぞれの規模が古記録に次のごとく残っている。

北から南側へ順に

一、鱗芝口南北長サ七間

高サ四尺五寸十六坪

二、蓮谷口南北長サ十一間

高サ九尺五寸四十六坪

三、新道口南北長サ六間

高サ七尺二十六坪

四、古道口南北長サ七間

高サ九尺三十六坪

五、神道口南北長サ十四間

高サ六尺二十五坪

この構築には、一千三百七十五人半の人足を要し、一人米五合が支給された。総費用は、不明。

大砲は、砲身全長百五十四センチメートル、口径六・五センチメートル、筒先の直径二十四センチメートル、最大三十・五センチメートルの火縄式で射程距離わずか数百メートル、砲弾は破裂せず何度も使えたという。

この付近に武士溜り陣所六軒、波打ち際に二軒。蓮谷口と新道口の間に武運祈願の社(やしろ)と鳥居が造られた。

この構築は、幕府の品川砲台に先んずること実に八年、久徴の先見性と決断が高く評価された。

「加納の陣立て」

久徴は、百人弱の家臣団ではせまり来る国難に対応できぬと判断、急ぎ徴兵制を敷いて農漁民、商家の若者を集め、オランダ式軍法に倣い、赤白黒青黄に色分けした鉄砲組、弓組、歩兵組など部隊編成が、「加納の陣立て」と呼ばれて大評判となる。

際立った治績

久徴は、天保十三年(一八四二)三十歳で加納氏十四代を襲封するや、翌十四年玉前神社に甲冑一領を寄進して勇将廣常の威徳を奉賛。同十五年洞庭湖を築き、市兵衛堀を窄って田を潤し、傍ら湖畔に桜を植えて名所とし記念碑を建立。文久二年高藤山遺蹟に建碑。この前年、皇女和宮降嫁の道中供奉総奉行の大役を無事果たす。文久三年真忠組の騒乱を、若い久恒(ひさつね)を援け鎮圧等々。

国情騒然たる中にあって軍事に内政に多大な治績を遺し元治元年逝く。五十二歳。

脚注

※1小高春雄『長生の城』「一宮城」(正文社、平成三)。当時、総南博物館上席研究員として、現地調査をはじめ、このテーマに長年取り組む。氏の幅広い調査と綿密な分析を通して、過去の中に隠されていた真実の世界が私たちの前に現れる。

※2新人物往来社『歴史研究』平成十年八月号掲載「幕末日本防衛先駆者」

※3玉前神社永禄五年、里見・土岐・正木連合軍に攻められ一宮城落城。そのとき玉前神社も炎上、飯岡に逃れる。

※ 4高島秋帆たかしましゅうはん、一七九八~一八六六、江戸時代後期の砲術家、天保十一年九月アヘン戦争の勃発を見て幕府に様式砲術の採用を建議。入府を命ぜられ実際に調練を実施して名声をあげるが、幕府内部の守旧派に疎まれ、投獄されることもあった。ペリー来航を機に許され、後に久徴の推薦もあって講武所師範となり、幕府軍事の近代化に寄与した。江川英龍ら幕末の砲術家の多くが彼の薫陶を受ける。(『国史大辞典』)

註記前々号、前号で藩主久徴が、「かって七百余年を遡る廣常の忠勇偉略の如きは一人問う者あらんや」と、その現状を憂い、故地高藤山に碑を建てたように、一人の研究者、一人の藩主が拓いた、郷土理解への道筋の一端として紹介しました。これは、埋蔵された「地中から」の、消えかかる「過去から」の、盛んなメッセージです。


上総一宮郷土史研究会
金田昭