史蹟 高藤山と「古蹟の碑」

 

史蹟 高藤山と「古蹟の碑」

今からおよそ900年前の平安時代の末期、都で権勢をほしいままにしていた平家もようやく衰えをみせ、これを機に、関東を中心に勢力を伸ばしていた東国武士団を募って頼朝が挙兵。

このとき軍騎2万余騎を率いて馳せ参じ、数々の戦功をあげて頼朝を援け、やがて、建久3年(1192)鎌倉幕府創建を遂げる礎となった勇将上総介平廣常。

その廣常は、志半ばに無念の死を遂げ、〝悲運〟の勇将とも称される波乱万丈の生涯をおくるが、勲功と悲運とを相半ばに、後世にその偉名を留めるべく建てられた碑が、苔むすままに一宮町市街地の西、睦沢町と接する町境、標高83メートルの高藤山城址山頂にある。

そしてこの碑文は、この高藤山こそ、8世紀初頭の律令制の下に、寛平2年(890)朝廷より派遣された高望王を祖に、上総地方の支配を継ぐ上総介廣常の居城であったと伝える。しばらくこの碑文を読み進め、在りし日の雄姿と悲運、古城の物語に分け入ってみよう。

 

高藤山全景
高藤山全景

 

[現代文読み](前半)

 「今加納が治める所は上総長柄郡一宮本郷村という。山があり村と名は同じ。其の奥にまた山があり高藤山という。上総介廣常の城址だというその山だ。

真っすぐ30余丈(実測では70メートル程)も聳(そび)え、山上に本丸や櫓(やぐら)、馬場などの遺阯があり、地を平に削り段落にして土手のようにし、合わせて平方2千5,6百歩になる。

山の下に刀工隊谷、箭谷などの名があり、傍らに立旗阪、伊南君(殿)、和泉君、馬鐙、火長、松皀隷などの諸谷がある。(地名は、碑文のまま。)

山西はやや平らで、曲がりくねりながら連なって下り、馬の蹄も通じる。その他の三面は皆嶮(けわ)しく、騎行は難しく徒歩の者も容易によじ登ることはできない。

山脈を東に進むこと一里程、南北二里、つまり前の本郷の山だ。その東は九十九里の波が打ち寄せる浜。山の東北に一宮川が環るように流れている。

土地の人の話では、本丸南西の妙勝寺は、当時城の正面の址と。その側の隼人谷は廣常重臣の宅地、また柏谷古堰に小版橋があり、それに沿っては旧称大橋と呼ぶ城濠の址という。

大略高藤は本丸、本郷は外郭であったといえるのではないか。その様子と位置から考えると、優れた自然の要害であって侵すことのできない城であったことを疑う余地はない。

遠い昔のことで、これを裏づける確かな根拠が見当たらないのが残念だが、以上が高藤の地理である。」

 

小高春雄『長生の城』3 高藤山城より
小高春雄『長生の城』3 高藤山城より

 

文久2年(1862)、ときの一宮藩主加納久徴(注1)は、平安朝以来上総に盤據してこの地を拓いた上総平氏の末孫廣常がここ高藤山より参陣し、鎌倉幕府の礎を築いたその足跡に思いを馳せ、顧みられることなく失われようとしている先人の偉業と故地を、郷土の誇りとして永く後世に伝えようと、幕府儒官古賀茶谿(注2)の撰文、朋友の勘定奉行戸川播磨守の題字と書により建立(注3)。今は訪れる人も少なく山上に独り閑かに佇んでいる。

この碑は、ここに描かれてた険阻な地形、九十九里の遠望、眼下に望める一宮川やゆかりの地名などと重ね合わせ、出陣の日、山上に立って天下を臨む廣常の雄姿を彷彿させるものがある。

碑文は、なお後半に及ぶ。廣常の参陣と勲功、一転して寿永2年(1183)の悲運の誅死も、廣常生前玉前神社に奉納の甲の願文からその無実を知り、頼朝大いに恥じて一門をゆるす、などの顛末と廣常の遺徳を後世に伝えるべく、筆致豊かな荼谿の撰文を通して、久徴が今に強く訴え続けている。

 

高藤山古蹟の碑
高藤山古蹟の碑

「高藤山古蹟の碑」碑文は,こちら(PDF)

 

【脚註】
(注1)加納久徴かのうひさあきら14代藩主。天保13年藩主を継ぎ22年、洞の堰を広げて洞庭湖を完成。市兵衛掘開墾による用水路の確保、勧農、凶作に備えた「御救御積米」など多くの治績を遺す。

黒船渡来に備え他に先がけて台場を建設。皇女和宮降嫁には供奉総奉行をつとめる。また、廣常の故事に因み玉前神社に萌黄縅胴丸を寄進している。

(注2)古賀茶谿こがさけい1861(文化13)~1884(明治17)名は増(まさる)。父を継ぎ幕府儒官に。後蕃書調所を督し、晩年は転籍を侶とす。幕末・明治の高名な儒者。

(注3)高藤山古蹟碑この碑は、初め高藤山上に建ったが、明治末年、なるべく多くの人々の参観の便に応えるべく一宮小学校裏山に移設。昭和3年、元の山上に戻す。約800字に亘る漢文を読み切ることの難しさから、今は忘れられて訪れる人も少ない。

【註記】

今回は、一つの史蹟、一つの碑文から、郷土の歴史の一端を知り、「ああ、こういうものがあったか、こういうこともあったか」と郷土の理解につなげていくよすがになればと、町外れの一つの険阻な山、一つの碑として、廣常ゆかりの高藤山城址とその70メートルの山頂に建つ古蹟碑(ともに町指定文化財)の前半を紹介しました。

上総一宮郷土史研究会

金田昭