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町長日記 11月12日(咲雀民踊教室第40回発表会に出席)

    今日は、長生村の文化会館で開かれた咲雀民踊教室の第40回発表会に伺いました。午前10時からの開幕でしたが、お昼を挟んで3部構成となっており、大変盛り沢山な催しでした。民踊とは、わたくしが解釈したところでは、民謡を振りによって踊る舞踊という意味ではないかと思います。日本各地の民謡に合わせて、オリジナルな振りがあればそれに従って踊り、なければあらたに振りをつけておどる、というものかと思います。咲雀会の皆様には、先代の長谷川咲先生、現在の主宰・松本勇子先生の二代にわたって、一宮町は大変お世話になってきました。東浪見甚句、或いは上総十二社祭り木遣り歌といった民謡が一宮町には歌い継がれてきていて、大変すばらしいのですが、しかるべき踊りの振り付けは、伝統的には確立していなかったわけです。そこに、咲雀の先生方が振りを付けてご指導いただいてきたわけで、現在そうした民謡の踊りが披露できることは、両先生のお蔭なのです。

 そもそも民謡というのは、どこにもあったものだと思います。人間は色々な局面で歌を歌いたくなりますが、かつて録音・再生機能が存在しない時代には、すべて「vanishing into the air(空気の中に消えてゆく)」わけですから、土地土地で違った節が歌われていた蓋然性は高いものがあったと思われます。歌ではなくて、言葉遣いでも同様のことはあったと伝えられています。わたくしが育った東海道の戸塚では、江戸時代に、尾根道をたどってゆく次の宿場藤沢の言葉は、自分たちより乱暴だ、といっていたと、なにかの本で読んだことがあると記憶します。数キロしか離れていなくても、言葉遣いが違うというのです。だとすれば、歌について、もちろん京都・大坂・江戸といった全国的中心地、或いは仙台・金沢・広島といった地方の大きな城下町などではやった新しい音曲が、学習者によってそれ以外の地に伝えられ、根を下ろすということはあったと思われますが、個々の変異は相当のものがあったと推定されるわけです。

 しかし、近代になってくるなかで、そうしたものは全国的な音楽の流通にさらされ、祭りなどの際には歌い継がれてゆくでしょうが、日常の中からは次第に姿を消していったのではないかと思います。そういう中で、なおも「民謡」というジャンルのもとに生き残ってきたものは、その生命力が中でも強かったのでしょう。一宮町には、そうした生き残った「民謡」が二つもあるのです。これは、小さな町としては、大変誇るべきことだと思います。これに咲雀の先生方が振りをつけてくださったのですから、大変ありがたいことなのです。みんなで踊れるようにしたいと思います。

 さて、発表会ですが、冒頭から、小さい子供さんの踊りが大変かわいらしく披露され、会場の大喝采を博していました。二回目の登場の時に、インタビューがあったのですが、2歳・3歳の娘さんであるということでした。ご自身ではきはきと答えておられ、仰天しました。踊りも、振り付けをよく覚えておられ、大変感心致した次第です。今後のご活躍が期待されます。

 その他、年配の方々、妙齢の方々、皆さんの舞いずれも素晴らしく、まさしくしばし「夢心地」に浸らせていただきました。民謡のリズムやメロディーには、若いころはぴんとこないと感じる部分もありましたが、わたくしも60歳になったためか、大変からだになじむものがありました。咲雀会の皆様のますますのご発展をお祈りいたします。

 ところで、もうひとつ心に残るお話しがありました。それは、東浪見の田中さんの奥様のお話しでした。伊予万歳という踊りがあるのですが、この衣装を作ってほしいと松本先生からご依頼があったとき、写真と見本以外に資料がなく、複雑な構造に手を付けあぐねていたのだそうです。そうして悩んでいた時、急に背中を押された感じがして、「あなたならできる、がんばって」という励ましのメッセージをもらったような気がされたのだそうです。そして、そこから急に元気が出て、色々なアイディアがわいて、素晴らしい衣装の完成に至ったのだということです。田中さんは、きっと先代の長谷川先生が声をかけてくださったのだと思っています、と仰っておられました。大変すばらしいお話しで、感銘を受けました。残念ながら、伊予万歳はおおとりのポジションでしたので、お昼で退出したわたくしは拝見することがかなわなかったのですが、次の機会に拝見できることを楽しみにいたしております。